司会 >
続きましては、再興九谷焼の窯跡であります山代温泉の九谷焼窯跡展示館学芸員の田嶋正和さんにお話を伺いしております。中矢さんこちらも非常に貴重な窯跡であるんですよね?
中矢進一氏 >
ええ、そうですね。田嶋学芸員はこの山代温泉にある吉田屋窯跡を実際に発掘をした担当者でありまして、今回も先ほどお見せしましたが、「官報」告示にありますような国の指定史跡に追加指定になった窯跡でございます。そこらあたりの吉田屋窯跡の意義、そこらあたりをまとめて我々に紹介してくれると思います。
対談
中矢進一氏 >
吉田屋と古九谷の再興ということについて大まかにお伺いしたいのですが、まず、この吉田屋伝右衛門、吉田屋窯を創設しました方ですが、この方について少しお話しをしていただけますか。
田嶋正和氏 >
この九谷焼を再興した吉田屋伝右衛門というのは4代伝右衛門でして、吉田屋というのは代々大聖寺の豪商としてしられた家柄町人なんですけれども、その四代目の伝右衛門さん、その前の3代伝右衛門さんのときから大聖寺の藩に多額の献金をしていたということで、名字帯刀が許されまして豊田の姓を賜っていたのですが、この4代伝右衛門さんは豊田伝右衛門成元という名前の方です。この方が自分の私財をなげうって、かつて素晴らしい焼き物を焼いていた古九谷これを復活しようという強い熱意の元に、自分の私財を投じて復活したのが現在の九谷焼の直接のルーツになります。
中矢進一氏 >
吉田屋伝右衛門さんが、九谷焼を再興しようとして、当初は文政7年に九谷の聖地である九谷古窯跡の所に築いたのですが、今この山代温泉のここへ2年足らずして窯を移しています。なぜ2年足らずで窯を移したか?またなぜ最初からここでしなかったか?そこらあたりはどうお考えでしょうか。

 
収録ビデオ画面より

田嶋正和氏 >
焼き物の名前といいますのは、まず最初に焼かれた所の地名が付くというのが常識なんですね。最初からここに、山代に築いたのでは伝右衛門さんがいくらこれは九谷焼ですといっても誰もそれを九谷焼とは思ってくれない。それは山代焼でしょうということになってしまうわけですね。ところが、伝右衛門さんはそういうこともちゃんと踏まえた上で、まず最初は山中町の九谷で窯を築いて焼かなければ九谷焼はでない、ということであえて大きなお金を使ってでもまず九谷で作らなきゃいけない、そういう考えのもとで九谷で復活したのだというふうに思います。
それが2年もたたない間にこの山代に移されるというのは、まず理由としては非常に山奥なので雪が多いということ、それから交通の便が非常に悪いということですね。出来上がったその作品を運び出すのに非常に道が悪路であったいうことなどもあって、ここへ移されたと。しかしながらそれはもう九谷の山奥で焼く前から十分わかっていたことなんですね。だけどもあえてその九谷でやったというのは、先ほど言いましたようにまず九谷で焼かなければ九谷焼ではないとその思いからですね。
中矢進一氏 >
山代の越中谷に、まあここなのですが吉田屋窯を移したのですが、ごくごく最近までその所在が明らかでは実は無かったようですね。
田嶋正和氏 >
これにつきましては、いろんな文献等で山代の越中谷に窯を移したいうことが分かっていたのですが、その越中谷がどこにあったのかということが長らく全く分かっていなかったのですね。逆に、昭和15年までここに窯がありましたから、ここに窯があったということは今でもお年寄りの方は知っているわけですね。ところが、この窯がそのまま吉田屋の時代から全く場所を動かさずにずっと連綿とここで一つの窯でずっと継承されてきたということがもう忘れ去られていたわけですね。
それが偶然、平成2年になりましてこのすぐ近くで木を移植するということで、穴を掘ったときに吉田屋特有のねずみ色をした素地、それの焼き歪んだ大きなお皿の破片が見つかった訳ですね。それによってここにすぐ側に窯があるのではないかということで色々調査をしましたら、その結果ようやくここに吉田屋以来昭和15年まで連綿と窯が引き継がれてきたということが分かったわけです。
中矢進一氏 >
それでは、ちょうどこの山代の吉田屋窯の跡に立っている訳ですけれども、少し構造について視聴者の皆様にも分かりやすいように少し説明をしていただけますか。
 

   
収録ビデオ画面より

田嶋正和氏 >
こちらの窯は連房式登窯といいまして、登窯なのですけれども階段状に一部屋一部屋分かれている窯でして、こちらの方は一番大きいときには6部屋で構成されておりました。それぞれが壁で仕切られていて、最初に薪でまあ当然薪で焼くのですが一部屋ずつ、下の方から一部屋ずつ順番に焼きあげていくという、薪で焼く窯としては最も効率のいい窯の構造、それが最終的に一番良い窯の構造を採用していたということが分かっております。
中矢進一氏 >
それでは、古九谷から始まるいわゆる九谷の歴史の中でこの吉田屋というものの位置付け意義といったものはどのようにお考えでしょうか。
田嶋正和氏 >
まず吉田屋がこの九谷焼を復興しなかったら、現在九谷焼という焼き物は無かったというふうに思います。それと吉田屋が目指した九谷焼それは古九谷の中でもこの青手ですね、一番その色の落ち着きのある色、そして器の作りそのものも古九谷に非常に近い、通常ですと全国の他の焼き物ですと江戸後期は江戸後期の形をしているのですが、吉田屋が作らせた九谷焼といいますのは江戸後期でありながらまったく江戸前期の古九谷と器そのものも非常に良く似たもの、そして絵も江戸後期としては非常に珍しく大胆な構図のもの、そういうあくまでもその古九谷の中でも今一番好まれているその青手をまず復活する、そしてそれ以後こだわりをもって、常にいつの時代になっても手抜きをしない、すべて手作り手描きで、器の作りも非常に手間ひまを惜しまないそういう作りを目指しています。
その伝統といいますのは現在でもこの加賀市の九谷、江沼九谷に受け継がれていて、今でも皆さん非常に手間ひまのかかる作業をしながら、少しでもいい品物を作るという、伝右衛門さん以来のそのこだわりを持った作りを現在でも継承して、現在の九谷焼に繋がっているというふうに思います。
中矢進一氏 >
古九谷以来の伝統を引き継ぐ吉田屋であり九谷であるということなのですが、最近九谷古窯、古九谷を焼きました九谷古窯が国の指定史跡でございますが、それに追加というかたちでこの吉田屋の方も国の方の答申があったようですが、そこらあたりはどうお感じになっていますか。
田嶋正和氏 >
おかげさまで、もう既に文部科学大臣の方に答申がでまして、2月には国の史跡に指定されるということで、これは追加指定というかたちなのですが、全国的に見ると非常に珍しくて、九谷の古九谷の窯跡あるいは吉田屋の窯跡、そしてこの山代の窯跡、これを一体的に含めて史跡に指定して保存をはかることで、現在に繋がる日本にとって非常に重要な焼き物である九谷焼の一貫した歴史的な背景、実際に焼かれたその窯跡、そういうものを保存することによって現在へと繋がる九谷焼の全体的な歴史を将来に渡って保存していこうということです。こういう飛び地指定というのは非常に全国でも珍しいそうなんですが、それはこの窯跡が全国的に見ても大変価値のある歴史上非常に貴重な史跡であるということの証だというふうに思います。
中矢進一氏 >
それでは最後に、今の国の答申からもわかることですが、いわゆるその九谷古窯以来の九谷の伝統というものを、この吉田屋というものがしっかり受け継いで、そしてこの史跡に追加指定になったといういきさつですけれども、今後、この吉田屋の窯跡をどのようなかたちで活用していくのか、そしてこの山代の窯跡展示館がどのようなありかたで市民の皆さんに利用していただければ良いかというそこらあたりのお考えはありますか。
田嶋正和氏 >
この九谷焼窯跡展示館が整備しオープンしたことによって、まず地元の皆様方に九谷焼というのはこの江沼、現在の加賀市が本来の正当な伝統を引き継いでいる、こここそが九谷の故郷なんだということをもう一度再認識していただいて、そしてこの展示館にたくさんの皆様に来ていただいて実際のこの窯跡であるとか、あるいは横にあります現存最古の窯、そして展示棟に展示されている数々の資料、そういうものを通して本当の九谷焼っていうのはどういうものか、本当の九谷焼というのはどういうふうにして現在に継承されてきたのか、そういうことをまじかに見て感じていただきたいと思います。それとこの展示館が整備されたことによって、この所在する山代温泉のイメージアップに繋がればというふうに考えております。
対談終了
司会 >
田嶋さんのお話にもありましたが、山代で吉田屋窯の窯跡がありますが、まずは九谷のほうで窯を開いていた、あくまでも古九谷の再興にこだわったということですね。
中矢進一氏 >
ええ、そうなんですね。まず古九谷というものがあって、だからこそ吉田屋というものがそれを目指して九谷の聖地である古九谷の窯跡の横に窯を築いたということなのですね。

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