「推し九谷」講評

令和6年度

講評「コメントを拝見して」

村瀬 博春 (むらせ ひろはる)
石川県九谷焼美術館館長
1982年石川県美術館(旧館)、1983年石川県立美術館(新館)学芸員勤務を経て現在は石川県九谷焼美術館館長及び石川県立美術館文化財保存修復工房 担当課長。
石川県生まれ。
上智大学文学部哲学科卒業後、北陸先端科学技術大学院大学に進学、博士号(知識科学)を取得する。
研究領域は日本美術工芸史、工芸論、博物館学、日本文化史など多岐にわたる。


先頃逝去された高階秀爾先生は、ある講演で山上憶良の“妻子(めこ)見ればめぐしうつくし(妻と子を見ると切ないほどかわいくいとしい)”を引いて、日本において美は当初愛情表現だったと紹介されました。
今回「推し九谷」に寄せられた皆様のコメントを拝見して、改めて奈良・平安時代から日本人の美意識は大きく変わっていないと思いました。人間同士の恋愛であれば、好きに理屈はいらないとも言えますが、美術作品の場合は、思いを言葉にすることで、作品と心が通い合うのではないでしょうか。
それは、作品を介した自分自身との対話でもあります。美術館に展示されている作品は、何年も、時には何十年も変わりません。しかし、それを見る自分は時々刻々変化していきます。その中で、人生の友、あるいは師と思えるような作品との絆が生まれることがあるとすれば、それはとても幸せなことだと思います。
若い時に作品に寄せた素朴な感情は、自身の成長とともに変わることもあれば、変わらないこともあります。私自身、作品の研究をしながら、小中学生の頃に感じた印象が核心を突いていたと思うことがしばしばあります。そして今回の皆様のコメントにも鋭い指摘が多く見受けられ、新鮮な驚きを覚えました。
皆様は、これから様々なことを学びます。そして学びによって、言葉による表現も豊かになっていきます。そうしたときに、今回推した九谷を振り返ってみてください。作品には、言葉を超えた「何か」があると気づくかも知れません。この「何か」こそが、人々を創造的活動に向かわせる原動力だと思います。
今日ではAI(人工知能)もアートを制作します。しかし、美術館に展示してある作品と何年にもわたって絆を深めていくことは、効率性を第一とするAIには理解できない非効率的な営みです。しかし、この非効率性にこそ、人間が人間であることの意義があると思います。今回の「推し九谷」をきっかけに、これから美術館に何度も足を運んでください。そしてゆっくり流れる時間を楽しみながら、ご自身の人生と静かに向き合ってみてください。石川県九谷焼美術館は、人生を考える「場」としての最低限の環境は整っているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。この点についても、皆様のご意見をお伺いしたいと思っております。