吉田屋九谷の特徴はなんと言ってもその筆致で、繊細で速度感に溢れており、作風も画工職人のそれでなく絵師を想わせる。絵具もその他の再興九谷諸窯のそれとは異なり、独特の清涼感をもち、ガラス質(釉薬)の美しさを最大限に引き出している。九谷陶石のみでは可塑性が少ないため陶土を混ぜるという「二分入り素地」を創り出した陶工らの苦心、作品の直接的な特徴となる絵付師らの絵画力と絵具調合の技量、窯主である吉田屋伝右衛門の博学多趣味に裏付けられた文化的情熱、これらが吉田屋窯に注がれ、短期間ではあったが、しっかりと青手古九谷を意識し、その作風を踏襲しながら独自の作品を生み出した。


百合図平鉢 吉田屋窯
(石川県九谷焼美術館蔵)
三夕歌留多図鉦鉢 吉田屋窯
(石川県九谷焼美術館蔵)
六歌仙図額鉢 吉田屋窯
(石川県九谷焼美術館蔵)

大聖寺の豪商、豊田家(屋号 吉田屋)の四代伝右衛門成元が、古九谷に魅せられその再興に晩年の情熱を全て注ぎ込み、大聖寺藩や大聖寺町会所の支援を得て、九谷村にある九谷古窯跡に隣接する形で文政6年(1823年)に築窯に着手し、翌文政7年(1824年)、開窯した。しかし、交通の利便性の悪さなどから文政9年(1826年)には山代村の越中谷に移窯した。九谷焼を再興した吉田屋窯の製品は山代へ出ても九谷焼と呼称された。通常焼物の名は地名に因むことから“九谷”の地で始めた吉田屋窯は、真の意味での再興九谷窯である。


吉田屋窯跡(九谷)
(石川県九谷焼美術館『九谷を魅る』より)
山代再興九谷窯跡 (九谷焼窯跡展示館)
(石川県九谷焼美術館『九谷を魅る』より)

豊田家に伝えられ、現在は加賀市所蔵で加賀市指定文化財になっている「吉田屋文書」からは、吉田屋窯の細部にわたる経営組織や経営内部などが見てとれる。その中の「陶器方へ雇置人々」という文書によると窯経営に関わった陶画工らは総勢20名、その中で轆轤成形に関わった陶工は信楽と京焼の出身者で占められているが、錦窯・絵付担当には粟生屋源右衛門、鍋屋丈助、越中屋幸助という加賀国出身者3名があたった。鍋屋丈助の娘二人は型を担当し様々な形状の作品を残している。


吉田屋文書「陶器方へ雇置人々」
(石川県九谷焼美術館『古九谷浪漫華麗なる吉田屋展』より)

借銀による巨額の投資が吉田屋の経営を圧迫し、その上、窯の精神的支柱だった四代伝右衛門が他界したことも手伝って、僅か7年で終焉を迎えたが、再興九谷の吉田屋窯の存在がなければ、現在の九谷焼はなかったといっても決して過言ではない。その意味から吉田屋伝右衛門は九谷焼中興の祖ということができよう。


四代吉田屋(豊田)伝右衛門 自画像軸
(石川県九谷焼美術館『古九谷浪漫華麗なる吉田屋展』より)


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