見たこともない形。 使いにくそうに見えるけれど、とても手になじむ。 なにより、見て、使って、たのしい。はじめて出合うような、そんな不思議なうつわを作っている山下一三さんにお話をうかがった。
── 一三さんが焼きものを始められたきっかけを教えてください。

学生時代に、仕事を決めなあかんなってときに、京都で焼きものをやろうかなって思ってね。親に話したら、石川県にも焼きものはいっぱいあるから帰ってこないかって言われて。それまで石川県に焼きものがあるっていうのが頭になかったんやね。大阪芸大にいた頃は、陶芸っていったらもっと前衛的、創造的な作品しか頭になかったから、九谷焼が焼きものっていう概念をあんまり持ってなかった。
それから図書館で、石川県で焼きものをやってる人を調べて、そのときに北出不二雄先生の作品に目が止まった。塔次郎さんのらくだの絵皿とか、モザイクの作品とか、そういうのもあったし、ああ、この系統はおもしろいなと。
そんなとこ行けるかどうかわからなかったけど、父の知り合いの人に紹介してもらってね。ちょうど北出先生が忙しくなってきたときで、タイミングがよかったんやろね。学校で習うっていうようなんじゃなくて、先生のそばで仕事をしながら、先生がものを作ってるのを見ながら学んでいきたい、勉強したいって、そんな話をしたら、じゃあ来ないかって言ってもらえて。

9年間先生のところにいて、最初の1年間は何もかもが新鮮やから一生懸命やったけど、ある程度技術を覚えたり慣れたりしてくると、自分では気づかないうちに真剣味がなくなるんかな。これはいかんと思った、そんなときに、気が抜けて大失敗して窯をだめにしてしまって。それから、1年後に先生のところから独立しようと思った。でもその最後の、やめるまでの1年は、いかに途中、勉強してなかったかというのがわかって、また絵の具の試験をやり始めて、図書館行ったり、本読んだり、必死やった。9年間いたけども、本当に勉強したのは2年間かな。最初の1年と最後の1年。やっぱり人間てね、甘えてしまうしね。

──北出不二雄先生からの指導はどのようなものでしたか。

僕に才能がなかったのか、北出先生の所属されてる日展とか新工芸展に出品したらいいとか、そういうことは一言もなかった。
僕はろくろ担当でも上絵担当でもなく、下仕事ばっかりやったんですよね。粘土をもむ、絵の具や粘土や化粧土の試験、形の試験、それから、先生が公募展出されるときの粘土をもんだりの手伝いをしたり。ろくろも練習させてもらってたけど、大皿や花瓶をひいたかっていうとそうでもないし、呉須で絵を描いたこともなかったし、色塗りはけっこうしたけど、全部中途半端で。やめたときに、なんにも身についてないなーと思ったけども、そういう下仕事をしたことが、後になってはよかったんかなぁと。合わせ技で「一本」というとこやね。

──北出先生は意図的に一通り全部やってもらおうとされたのでしょうか。

先生にはそんな考えがあったんじゃないかな。コピーからものなんかできないって先生からは言われてたし。自分で観察するってことをして、ものを全部自分で一から作りあげていかないとちゃんとしたものはできない、必ず自分だけの特色あるものを作らないと工芸家として残っていかないって。
量産品を作るには分業化せなあかんやろうけど、個人的な制作者は総合力が大事ってことで、全部やらせてくれたんやなぁと。

でも、先生のところやめて、1年間必死やったけど、全然形にできずに、ちょっと焦りが出て。先生の作品と似たものを作って、絵を描いても、先生のように絵は描けないし。そんなときに、板状の粘土で作った三角形の変わったコーヒーカップができた。誰かのマネをしたんでなく、悩んで悩んで手を動かして、自分の身体の中から生まれてきたって感じやった。




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