伝世品の作風は、周縁に文様を配し見込みには余白として白地を生かし花鳥風月などを描く五彩手に多い絵画的なものから、植物文様など具象的な画面を心情的に訴える青手に多い抽象的なものまで多岐にわたる。画題や画風は、基本的には中国の影響を受けており、明代に刊行された『八種画譜』からの引用も見られる。また、日本の琳派や狩野派の絵画、蒔絵や染色、金工といった美術工芸、欄間等の建築彫刻など桃山から江戸のわが国の大名文化が色濃く投影されているとも指摘されている。つまり、古九谷成立には、強力な経済的背景を持つ文化的希求度の高い大大名の存在を抜きにしては語れないと考えられるのである。
こうした古九谷にみられる、濃密な絵具で素地全体を覆いつくす青手の塗埋(ぬりうめ)技法や、色絵具を分厚く盛る賦彩(ふさい)技法は、いまも九谷焼特有の伝統技法として北陸加賀の地に伝えられている。



色絵百花手唐人物図大平鉢 古九谷
(石川県九谷焼美術館蔵)
青手土坡二牡丹図大平鉢 古九谷
(石川県九谷焼美術館蔵)

九谷焼は、江戸前期に加賀大聖寺藩領内の九谷村で磁器の原料となる陶石が発見されたことを契機に、肥前有田の窯業技術を導入して、大聖寺藩窯を九谷村に築窯したことに始まる。廃絶後、江戸後期に再び興る「再興九谷焼」と区別するため、この時期の九谷焼を「古九谷」と呼んでいる。
この窯業事業は、大聖寺藩祖前田利治が始め、二代藩主利明によって進められた。大聖寺藩士で九谷金山の鋳金師だった後藤才次郎、陶工と思われる田村権左右衛門等が関与したとされている。
九谷古窯は連房式の登窯(本窯)で、全長34mを超える1号窯と全長13.7mの小ぶりな2号窯の2基から成っている。1号窯と2号窯の稼働時期は考古地磁気測定で若干ずれていることが報告されており、空白期間のあった可能性も指摘されている。


九谷古窯跡
 
(石川県教育委員会・石川県埋葬文化財センター『九谷を掘る』より)
九谷1号窯、2号窯(石川県教育委員会『九谷窯跡発掘調査報告書』より)

九谷古窯跡発掘の成果から肥前有田よりの窯業技術の導入が確実視されていることから、当時の有田の陶技を摂取し、あるいはその陶工の参加を得て経営されたと考えられている。よって、この時期における九谷と有田に様式上共通したものがあったとしても何ら不思議ではないが、この問題については今後の議論、論考等を待たなければならない。
九谷古窯跡からは膨大な白磁片のほか青磁片、瑠璃片、染付片、陶器質の破片も多く、中には吸坂風の鉄錆釉の茶入片も出土している。
近年の発掘調査では、旧九谷村内の九谷A遺跡から緑釉の色絵磁器片や色絵付窯跡と思われる焼土遺構が7基発見され注目を浴びている。色絵付けを前提とした白磁大平鉢が大量に九谷古窯跡から出土していることを考え合わせると、少なくとも江戸前期に色絵付け(上絵)の技法が北陸加賀の地に伝えられていたとすることに無理はないと思われる。つまり、九谷村において素地作りから色絵付けまで一貫作業がなされていたと考えられるのである。
なお、九谷古窯の廃絶の原因は定かではなく、藩財政の困窮、中心人物の死去、伊万里焼の大量流入、藩政の混乱、徳川幕府の干渉など諸説ある。



     
色絵陶磁片
(石川県埋蔵文化センター蔵)
(石川県立美術館『九谷名品図録』より)
 
焼土遺構
(石川県九谷焼美術館『九谷を魅る展』より)

古九谷の美(高田 宏)

「青手桜花散文平鉢」に非常に顕著なんだけども、これはもう大自然と直接に向き合っていた、つまり自然の 本質と人間とが向き合ったときに初めて生まれてくる 美意識だと思います。たとえば、いろいろな様式美の 伝統があって、そこから勉強してとか、中国の絵画の伝統から学んでとか、そういう間接的なもんじゃなく て、描き手が生に接している大自然、その本質をその人の天性で掴み取って描いたとしか思えない。



 


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