- 司会 >
- 古九谷その謎を追う、今回はこちらで番組制作にご協力いただいております、石川県九谷焼美術館副館長の中矢さんに古九谷伊万里論につきまして歴史的背景をふまえてお話を伺いたいと思いますよろしくお願いします。
- 中矢進一氏 >
- 今回、私の番でございますけど、私は古九谷焼そして伊万里有田焼という個々の陶磁器を注視するのではなくて、それぞれの焼き物を生んだバックボーンと申しましょうか、歴史的背景が江戸時代初期から前期にかけていかなるものであったか、とくに肥前佐賀の鍋島家と、この九谷を領していた大聖寺前田家との関連、姻籍関係がどのような形にあったかということを皆さんにお伝えできればなあというふうに思います。
- 司会 >
- では、事前にお伺いしておりますのでVTRをご覧ください。
対談
- 司会 >
- 大聖寺藩、九谷焼を有する大聖寺藩と肥前有田焼を有する佐賀藩、この2つの藩の間にどのような関係があったのでしょうか。
- 中矢進一氏 >
- そのお話をする前に、実はその伊万里と九谷をつなぐ意味で、一つの提示をされた先生がおられます。それは、昭和45年、46年に石川県教育委員会が九谷古窯を発掘した時に、調査委員長でありました東京大学名誉教授の三上次男先生が、「この九谷の古窯はその当時の有田の古窯とすこぶる類似したものである」、そしてそこから出土している窯道具ですね、「これもたいへんその有田の古窯のものに類似しているのである」という指摘をなさっておられます。つまり肥前からの工人の当然移入があったのではないだろうか、という指摘ですね。まず、それがあるということですね、そしたらそのなぜ大聖寺前田家がそういう磁器の窯業を興すにあたって、それを肥前の窯業技術を安易にですね、導入することが可能であったのか、その歴史的背景は、どういうものがあったんだろうか、あまり語られなかった。この点について今日は皆さんにお話をしたいと思います。
ご指摘のとおり、まず有田伊万里を領していた九州の肥前佐賀藩鍋島家でありますけども、鍋島家と前田家がどういう親交を重ねていたかということですね、実はこの前田家の加賀藩3代藩主の前田利常がおります。彼は寛永16年西暦で1639年ですが、小松城に隠居いたしまして、その加賀藩の方から富山藩そしてこの大聖寺藩を分けて、それぞれに自分の息子を配して治めさせた。そして自らは小松城で大御所的な立場で前田家3藩を統括していた。というふうに考えていたわけです。実はこの時期に加賀前田家の表納戸道具目録帳に慶安3年、そして4年1650年、1651年に佐賀藩初代藩主の鍋島勝茂から贈られた伊万里焼の染付の茶道具ですね、8件12点載せられております。 - 中には前田家からあつらえ注文したというものまであります。つまりこの時に両家はたいへん親しい親交をしてたという、そういう証左でもあると思うわけです。
- それではこの鍋島家と前田家の関係を示した関連系図がありますので、これをちょっと見ていただきたいのであります。今、私がお話し申し上げておりました初代の佐賀藩主鍋島勝茂であります、彼は前田利常とたいへん親交があったということは、今道具帳の記載からも分かることでお話をしました。その彼の長女、市姫という方が実に出羽米沢の30万石上杉定勝のところに嫁に行っております。上杉家というのは、例の上杉謙信のこの方は孫に当たる方でございまして、しかしながらこの江戸の初期には米沢の方へ転封されまして、30万石というふうに減封されていた外様大名です。その上杉定勝のところへ嫁いでおります。でこの間に生まれた姫がおります、長女は徳姫、次女が虎姫、で長女の徳姫という方がこの大聖寺藩前田家の初代藩主前田利治に嫁しております。
- そして実の妹である虎姫は佐賀鍋島家の2代藩主であります光茂に嫁しております。つまり、このことによりまして前田利治は初代の鍋島勝茂にとって外孫姫の婿になり、なおかつ、2代目の鍋島家の光茂の義理の兄にあたるわけです。光茂の正室である虎姫というのは、自分の母親の里に嫁しているわけです。この勝茂の孫にあたる光茂でございますので、いとこ同士の婚姻ということになりますけれども、いずれに致しましてもこの2人は義理の兄弟という関係で大聖寺前田家は2重のつながりで佐賀藩鍋島家とは深い関係がこのとき成立しています。
そして、前田利治には子がありませんでその弟が大聖寺2代目を継ぎます、前田利明です。彼の正室も実はこの上杉定勝の3女、長女、次女とは腹違いではありますけども、3女の亀姫、彼女が利明の正室になって輿入れをいたしております。つまり、この鍋島光茂との義理の兄弟の関係は引き続き継続されているということですね。
- ここが注目点であります。前田利明は元禄5年に亡くなっておりますので、この元禄5年までは、両家が親しい姻籍関係を保っていたということは言えると思います。そして先程申し上げました、勝茂と利常が大変親交を結んでいたのが慶安年間でございます。1650年ころ、そして前田利明が亡くなる元禄年間ですね、この期間おおよそ40年から45年位なんですが、この期間というのは丁度古九谷を焼いていた九谷古窯の稼働期とほぼくしくも一致するというものであります。
- 司会 >
- そうすると九谷の窯が開かれる1655年、その直前から丁度稼働していた時期を見ると、非常に前田家と鍋島家が密接な関係にあったんですね。
- 中矢進一氏 >
- そうなんです。
- 司会 >
- そういったことからみますと、職人の技術ですとか、人、物といった親交、交流といったものがあったんでしょうね。
- 中矢進一氏 >
- あの後藤才次郎という大聖寺藩の侍が、これは九谷金山に働いていた金工師でありますが、彼が九谷古窯の現場責任者のような形で殿様の命を受けて肥前の方へ行って、窯業技術を学んで、九谷を開窯したというふうに伝わっておりますが、一部その伝えられるように、芝居じみた感じですが、ある窯元に身分を隠して働いてそこの娘と婚姻をして、子供をなして、ようやく秘技を伝えられて、そして妻子を打ち捨てて加賀へ帰ってきたという。そういう伝承がありますけれども、こういう鍋島家と大聖寺前田家が近しい姻戚関係だと、こういう背景を考えれば、こういったことを考えなくても、もっと大名同士の付き合いの中で人、物、技術といったものが、有田皿山と九谷の間に交流があったのではないかな、というふうに思うわけです。
- これを実は裏付ける資料というのがあります。この前田利明が亡くなる元禄5年の翌年でございますけれども、この義理の関係からすると兄の光茂ですね、元禄6年、翌年に有田皿山代官に対してある禁令のようなものを出しております。それはどういうことかと申しますと、有田皿山の絵描き、それから細工人ですね、轆轤など、こういう人たちが、他の領地のですね、窯場へ出稼ぎ指南、指導に行ってはならんということを言っている。これは取りも直さず、そういうことが横行していたからこのときに禁令をだした。これは十分読み取れることであります、そしてなおかつ泉山陶石という磁器を焼く原石ですが、こういったものも実は大量に持ち出されていた。だからこそ、このときに厳しい禁令を出しておるわけであります。つまりその前田利明が義理の弟になるわけで、彼が亡くなった翌年にこのような厳しい禁令を出しております。そうしますと、こういうことが言えますね、古九谷を焼いた九谷古窯というのは利治と利明2代にわたる事業でありますので、それ以前はわりとこういう有田皿山の絵描や細工人たちが出稼ぎ指南に行くということが厳しく禁ぜられる以前でございますので、先ほど申し上げました三上次男先生が以前に指摘されました、肥前から九谷へ窯業技術の伝ぱ、それからそういう先進的な窯業技術をもつ人的な移入は、この時期的にも、それから状況的にも決して不可能ではなかった。ということが、こういう歴史的な大きな背景から読み取れるというふうに私は考えます。で私は、この両家の姻戚関係が深かったことを申し上げることによりまして、今後伊万里と九谷の問題につきましては、この語られることのあまりなかった。それぞれを領する大名同士が姻戚関係にあったという歴史的事実、背景といったものを踏まえた上での論考というものが、必ずこれから以降は必要になってくるんだろうというふうに考えております。そういうことで、この番組をとおしてこの事実を多くの方に知っていただきたく、今回はお話させてもらいました。ありがとうございました。
収録ビデオ画面より |
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対談終了
- 司会 >
- 中矢さん今回の「古九谷その謎を追う」の番組の中では、8回シリーズ10名に、九谷焼、古九谷に深く携わっていらっしゃる方にお話をお聞きしてまいりましたが、現在の段階でこの古九谷伊万里論というのは、どのように私達、考えたらよいのでしょう。
- 中矢進一氏 >
- もともとですね、古九谷というのは、まぎれもなく九谷の九谷古窯で焼かれていたということで、我々は永くそれを定説というふうにしておりました。しかしながらその九谷古窯の近辺からですね。色絵の窯跡がでない、そして、出土するものもいわゆる伝世する名品の古九谷とは若干素地の雰囲気が違うものがある。そこで疑問を呈せられて、翻って九州肥前の方の有田皿山の各古い諸窯の発掘が進められまして、そこから伝世古九谷と比較的近い素地のものが出土してきた、色絵素地が出てきた。そこで近年では、有田の窯で作られたものが、古九谷ではなかったのか。そういうことが随分有力視されてきておるわけですね、それが近年の流れだと思います。しかしながら、その先程のいろいろな方のお言葉からも分かるんですが、九谷A遺跡、そして3月2日に、国の指定遺跡に追加指定になったそういった史跡の所からいわゆる色絵窯跡がでてきたり、それから新たないくつかのタイプの色絵が付いた磁器片が九谷から出土したりという、さまざまな新発見が実はそこにある訳でございます。
いわゆる古九谷の産地問題につきましては、あの従来のような有力視されてきた、すべての古九谷が全部伊万里産であると、有田産であると断定してしまうような説、これはやはりこの慎重にしなければならない結論であろうかなあというふうに思っています。私が申し上げたように、有田伊万里を領する鍋島家と、そして九谷を領していた大聖寺前田家両家がたいへん近い姻戚関係がこの時期あったということで人、物、技術の交流があったとすれば、この問題は短兵急に結論を出す問題ではなくして両産地の、いわゆる交流のもとにそういったものが生まれたんではないか、そしてこの加賀前田家という加賀文化を育んだ前田家を抜きにして、最高級品である古九谷の百花手だとか、それから幾何学手、そして九角手いわゆる最高級品の古九谷といったもが、前田家とそういった加賀文化の背景なくして、生まれてこなかったのではないかという指摘も随分さっきから指摘をされております。そういうことから考え合わせてみますと、真の意味での古九谷、それはいったい何か、これを探る作業がいよいよスタートしたんだというふうに言えるのではないでしょうか。
- 司会 >
- 私達、地元の身近にこういった論争があるといったことを、そしてまた古九谷のすばらしさ地元の私達も改めて見直すきっかけになればいいと思います。今回は番組制作に協力していただきました、中矢さんどうもありがとうございました。
- 中矢進一氏 >
- ありがとうございました。