司会 >
古九谷、その謎を追う。今回は『古九谷論争の真実』の著者でいらっしゃいます、二羽喜昭先生にお伺いしております。中矢さん、二羽先生は古九谷論争、古九谷について独自の研究をなさっている方ですね。
中矢進一氏 >
そうなんですね。先生は元高校の先生でいらっしゃいまして、九谷焼の大変な愛好家であります。古九谷の研究についても、大変造詣が深く、調査研究を続けていらっしゃいます。このほど、そういう結果をまとめられたのが、この『古九谷論争の真実』、古九谷は伊万里焼ではなかった。という、こういうご本を出されております。先生はこの有田町の山辺田窯跡の取材等々を通じましてね、やはり、古九谷は存在し、そして伊万里焼ではなかったのだ、というようなことについてもこの中に詳しく述べられています。

収録ビデオ画面より

司会 >
では今回は、その研究について、本についてのエピソードなどを交えてお伺いしております。その模様をご覧ください。
対談
中矢進一氏 >
まず最初に、現在古九谷をめぐる全国の美術館、博物館の取り扱いの現状ですね、先生も、いろんな所を見てこられたので、その表記上の現状をまず教えていただけますでしょうか。
二羽喜昭氏 >
はい、実はいま現在は3つあります。「古九谷」という表示、これは石川県が中心ですけど、ひとつふたつ県外でもまだそれを守っておるところがあります。それからもう一つは、有田のほうですけど、これは今は肥前有田になっております。で実際に古九谷伊万里説が成立したときの、いわゆる国立博物館の指導した名称ですね、それは「伊万里焼古九谷様式」だったんです。ところが、有田のほうではどうしても古九谷という言葉を使うことに抵抗があるはずです。というのは、古九谷様式というのは九谷風なという意味ですから、「伊万里焼古九谷様式」というのは、古九谷風に書いた伊万里焼ということで、これは絶対に取り入れられないということで、ずっと、肥前有田、あるいは肥前皿山というような形で多少変ってますけど出てきました。それから、もう一つは「伊万里焼古九谷様式」で、それは東京国立博物館が主導したものなんですけど、これが全国の美術館へ波及したと、で、むしろそれをやらないと、なんか美術館の立場上具合の悪いというか、そういうところが、特に公立の美術館で出てきたのではないだろうかと。そういうわけで、たとえばあの大阪の市立東洋陶磁美術館などは、これを採用していますが、ちょっとおかしいんです。「伊万里焼古九谷様式」と書かずに、「有田古九谷様式」、とちょっと変えているところが面白いですね。
で、一番この「伊万里焼古九谷様式」の先陣を切ったのは、東京のサントリー美術館なんですね。ここはいきなり変えまして、そこが模範のようになって、この「伊万里焼古九谷様式」というのが全国に広まっていったと、こういうふうに思うんです。
これに強く抵抗しておったのが、石川県で、この石川県には非常にたくさん古九谷がありますので、実質、「伊万里焼古九谷様式」という名前は、石川県の拒否によって、なんか無効になったというような感じはあるんですけれども、全国のいわゆる社会的に見ますと、学会でも成立したというふうなことが言われたわけですので、社会的には古九谷は現状は伊万里焼というふうに考えていいと思います。
中矢進一氏 >
全国の美術館の表記がそのような形に現状なっているというお話でございました。で、こういったことが公にこうなされる起点になったというか、スタート地点になったというか、先生は著書の中で平成の古九谷論争のいわゆる原点、まあ平成3年の学会のお話ですが、そこがまずスタートではないかというふうに考えておられますけれども。先生のお考えになっている平成の古九谷論争、そこらあたりのことを少し皆さんに。
二羽喜昭氏 >
はい、この平成の古九谷論争というのは私の造語のようなものでして、読者には初めてだったはずなんですが、実は、これは平成3年に九州の陶磁文化会館で学会が2日間にわたって行われたんですけど、これはもうすでに古九谷を伊万里焼にするという前提のもとで華々しく行われたんです。そのときすでに九州の陶磁文化会館では、いわゆる初期伊万里と言われる、規定している古九谷も展示しまして、そこにはもう古九谷の名前がなかったと、こういう事情があるんです。で、そういう環境の中で学会が開かれて、そして基調講演がまずそれで打ったんですね。で、古九谷はすべて伊万里焼であったという、これが基調講演ですね。そして、いくつか、いわゆる江戸初期の色絵に関する報告のような研究などもありまして、二日目にはこれを盛り上げるための学会のようになったんです。そこで3つの研究発表があるんですが、これがいずれも古九谷は伊万里焼であるということを支持するための、あるいは支持するために企画された研究発表と言っていいと思います。
それからもうひとつ最後は、いわゆる公開討論が行われたんですが、パネリストは9名でしたけど、その中に一人もいわゆる九谷側代表が入れられていないという、そういう状況で、いわゆるしゃんしゃん大会という現状だったと思います。で、いわゆるそれが私の言う平成の古九谷論争なんですが、実はそのずっと前から、10年ほど前から古九谷を伊万里焼にするという準備がなされていたことは事実なんです。
石川県の古九谷古窯の発掘が、昭和45、46年、それからも続くんですけどなされて、そのときのいわゆる発掘団長が三上次男という、元東大教授を団長とするメンバーだったんですが、その方が昭和47年から、有田の発掘の団長になられるわけで、ところが、最初、発掘が始まって3日目にもう色絵が出たんですね。そこがひとつの発端になるんですけど、それからその山辺田山という所で発掘された窯跡は8つあるんですが、その4つから色絵が出たんですね。それで向こうのほうとすれば、これまで主張してきたように、もう古九谷は伊万里焼であると。というのは、それまではどちらかと言いますと、素地がね、有田であるといわれてきたんです。しかし、加賀のほうは、いや、それはそうでも、絵付はこちらだという主張があったもんですから、その色絵が出ることによって、もう完全に古九谷は伊万里のものであるという声が立ち上がったんですね。ところが、問題はここにあるわけでして、皆さんもそうだと思うんですけど、多くの視聴者はそうだと思うんですけど、実はあの色絵というのは登り窯で焼くというのはあり得ないんですね。で、しかもその有田の場合、表面採取と言われまして、いわゆる草むらにあったものですよね。で、それを当時は、出たぞ出たぞの合唱で、宣伝がなされたわけですけど、実はあの、素地が有田のものであるという主張はもう100年近くも経つんですよね。ところが、その時期ごろから、いわゆる考古学が非常に発達しまして、そこから出るものが注目を浴びるんですね。それでもし有田の窯場から色絵が出ないとなると、困る事情が生まれたわけですよ。それで、私の考えですと、そこへ持っていった。そこへ持っていったと考えていいんじゃないかと。そしてそれを証拠立てしたんです。ところが問題は、みなさんがそれに合唱したというのは、さきほどちょっと言ったことだったと思うんですけど、いわゆる上絵という古九谷の、いわゆる九谷焼の特徴の上絵というのは登り窯で焼かないんですね。で、そこを誰も知らないもんですから、一気にそのムードが高まっていわゆる新聞報道あたりもそれをサポートするふうに書かれていったわけですね。
そうですね、だから三上団長は、まったくそれを考古学的な資料とみなさなかったんですね。で、そこで有田側との軋轢が生まれて、すったもんだをやるんですけど、最初の私の、考えですけど、最初は三上報告書には、そのいわゆる色絵の発掘片の記録はなかったと思われるんです。ところが、有田にしますと、公式の発掘調査団の報告書にそれがないとなると、事実上古九谷は伊万里焼であるという理論が崩れてしまうわけです。で、そこで、向こうはそういうことはないと、こりゃそうだということで、とにかく、いわゆる調査報告書に、出たという事実だけでも載せてほしいということになったんでしょうね。それですったもんだして、私のこれも想像ですけれど、昭和55年にその報告書が出るという約束だったと思うんです。ところがそういう事情があって、なかなか出すのが難しくなったから、ほんなら載せようということで、いわゆる編集のし直しというか、一部ですけど、遺物片についての一部見直しがあったんだろうと思うんです。で、それに数年がかかってしまったということなんですね。
中矢進一氏 >
いろいろとその平成の古九谷論争のスタート、問題があったわけでありますけれども、ここであの先ほど少しお話しがあった、九谷の本領は色絵にありということをですね、少し、もう一度皆さんにわかりやすくお話していただけませんでしょうか。
二羽喜昭氏 >
あの、これはいわゆる色絵と言われる九谷焼の特徴なんですけど、結局素地は、どこのものであってもいい、有田でも瀬戸でもいいし、あるいは、アンコールワットの土地のものでもいいと、そういう事情があるわけですね。で、そこの理解の食い違い、実はそこの理解ができていなかったために有田のほうで、その色絵破片が出たことによって、いわゆる産地論争は伊万里で決着という雰囲気へ変わっていったんだろうと思うんです。で、ひとつおかしいのは、この古九谷論争っていうのは、石川県の産地と、有田の産地で争ったものじゃないんです。これはいわゆる、石川県と学会の対決というか、あるいは伊万里焼の研究者のグループとの対決と言ってもいいものだったんですよね。
だから、伊万里でも上絵窯をやってきた人はたくさんおるわけですから、その人たちがその理論の中に加わっておれば、決して、今問題になっておる、伊万里焼古九谷論争っていうのは生まれなかっただろう。というのは、実体験の人がおいでるわけですから、そんなあんた、登り窯で焼くのなんかおかしいんじゃないかと言ってストップかければそれで終わったはずですね。ところが、それがなかったばっかりに、これだけエスカレートした。それで、なんか発言されている人たちの人選を見ても、色絵がわかったと言う人はおいでないんですね。だから、そういう支持に回ったんだろうと思います。で、素地はどこのものでもいいわけで、したがって、絵に生命をかけたという意味で、古九谷色絵というものがすばらしくなってきた、と、私は思うんです。で、いわゆる登り窯は本窯とも言われますけれども非常になんかあの焼き方が難しくて、不良品が多い窯らしいですね。で、石川県の場合、素地を輸入したということになりますと、そういう本窯のわずらわしさにとらわれることなく、絵に生命を賭けることができた。それがあの古九谷であっただろうと、こういうふうに予想できるわけです。
中矢進一氏 >
それから、古九谷は伊万里ではなかったという先生の論陣の中で、同じその有田説に立つ方々でも、主張の対立点が実はあると、で、それがいわゆるそれが古九谷様式、それと、それに対立する形の、いわゆる柿右衛門様式、この時代の設定がなんか微妙に違うらしいですね。
二羽喜昭氏 >
あの、九州のほうで捉えた、そのいわゆる、古九谷とそれから柿右衛門、古九谷様式と柿右衛門様式の捉え方ですけど、有田のほうでは古九谷が途絶えて、そのあとに柿右衛門様式が生まれたと、こういう設定なんです。で、実は私の考えですとそうせざるを得なかったのは、どうしても、古九谷を有田の陶磁史に入れる必要があった。ところが、柿右衛門様式というのは、だいたい1660年から、ヨーロッパのほうへどんどん輸出されたんですね。ところが、その輸出されていくものの中に、いわゆる古九谷様式というものはないんです。それはもうわかってしまっていることなんですね。それでどうしてもその前に入れる必要があって入れたんだろうと。それから、そのいわゆる古九谷が制作されたという期間ですけれども、1640年から1660年という20年の間なんですよね。で、この間にあのすばらしい古九谷が栄えて、途絶えて、そして新しい柿右衛門様式が生まれたというのは、これはどうも説明がつかないことがありますね。それからもうひとつは実際にあの歴史の中で、有田に色絵が生まれたのは、1647、8年頃からなんですね、だからそれでもう非常に矛盾が、あるわけですね。そういうところがありますね。
それから、実は東京国立博物館にとっても、この問題は非常に難しい問題だったんです。それで、東京国立博物館は最初、理論を発表するときに、古九谷というのは、実は有田の初期伊万里が1660年ごろにふたつの様式に分かれて、柿右衛門様式と古九谷様式に別れていったんだと、そして古九谷様式は国内向けに、それから柿右衛門様式は外国向けにと、こういう考え方をしたんですね。だから、同じ古九谷伊万里説であっても、そういうふたつの大きな違いがありますね。これが矛盾点ですから、結局はっきりした物証もないままに、どうしても色絵が出たために、いわゆる古九谷を有田にしなきゃならん事情が生まれた、で、その理論を立てる立場の、ふたつの立場あるんですけど、そこもなんか勘違いしたっていうか、食い違いしたということで来てるんですけど、でも現状は、初期伊万里、つまり、古九谷が廃絶して新しく伊万里様式が生まれた、柿右衛門様式が生まれたというのが、今の有田の捉え方ですね。
中矢進一氏 >
さてその、古九谷伊万里論争の中で、その素地の科学的な分析、これがかなり重要なポイントになっているように思うんですが、さきほどの山辺田窯をはじめ、そのほかいくつかの有田皿山の諸窯の素地をもってですね、伝世古九谷が焼かれているわけでございますけれども、化学的分析からして、それらはすべて、いわゆる、やはり伊万里であったという結論が、記事が出ておりますけれども、このことについては先生はどのように。
二羽喜昭氏 >
あの、素地はおそらく九谷古窯の素地もあるんでしょうけど、向こうの言い分は、すべて伊万里で焼かれたという立場なんですが、実は、あの素地というのは、いろんな本も出てますけど、ほぼ、有田のものも多いだろうという結論で。実はこれは、あの石川県立美術館の嶋崎館長も認めておいでることなんで、問題はないんですね。ところが、実は非常に難しい問題は、染付けという部分があるんです。これはあの青色に発色する部分ですけど、いわゆる皿の中の見込みと言われる絵を描く中心の部分に、輪を丸を描いてあるとか、あるいは裏側にいろんな模様を描いた、唐草文様なんか描いてありますね、そういうものが有田から出て、それと同じものが石川県の名品と言われる、色絵の鶉草花図あたり、あるいは布袋図あたりに似たものがあるわけですね。それでみんな、もう間違いないと、思い込んだ。そこに考え方の違いが出てきたというふうに思うんですけれど。間違いが出てきた。そりゃ、そうですよ、同じ絵でも染付で描いたものまでが向こうだということがわかっているわけですよ、そんなら色絵だってそうだろうと、わざわざそんな遠い北陸へ持ってきて描いたことはないだろうということになったんだろうと思うんですけど、実際に、そのいわゆる本物ばっかりがこっちにあるわけですから、その本物は、加賀で絵付をしたというふうに考えるほうが、非常に自然なわけですよね。
で、私最近つくづく思うのは、あの絵のすばらしさですね。で、単に売るために素地を、いわゆる作品をつくるという人では到底描き得ない、すばらしい、まあ、天才たちの作品だと私は思うんです。そして、いわゆる一品一作主義で、同じものがないわけですよ。これはやっぱり生活も保障され、その能力も高く評価されながら、そのなかで勇んで描いた作品であることは、間違いないだろうと思う。そういう面からも、古九谷伊万里論争というのは無理があったんでしょうね。
それであの大正の始めに大河内正敏という、彩壺会というグループのリーダーだった方ですけど、この人もすでにその時期に、古九谷の素地には伊万里のものがあるけど、これは絵はもう絶対に加賀のものであるというふうに言っておいでますね。だから、絵から見て、あるいは絵がわかって、古九谷を見つめると、古九谷論争はそのいわゆる入口で止まっただろうと思うんです。で、それがわからん、絵がわからない、それからもうひとつ、染付の伊万里が向こうとなれば、これはもう、もう信じて疑わなかった。そういうことなんですよね。
対談終了
司会 >
二羽先生のVTRをご覧いただきました。中矢さん、二羽先生はまたその古九谷伊万里論に対してさまざまな疑問を提起されていらっしゃいますね。
中矢進一氏 >
そうですね。結局そういうさまざまな疑問があるということを前提にして、二羽先生は、収斂していく論拠とすると、素地移入説、つまり伊万里から素地を買ってきて、その上に九谷で絵を付けたんだという説を支持をしておられますね。

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