深海に沈んでいくときに出会うような青のグラデーション。 異国的に見える一方で、「日本海の色だよ」ともご本人が言われる苧野ブルー。 特徴ある青の作品が生まれてきた背景や、二人のお師匠さんとの思い出をうかがった。
──苧野さんは小さいころから焼きものをされようと思っていたんですか。

全然。そんなことは何もない。大学も応用物理計測工学やから。
何の関係もなかったけど、ただ、私ら学園紛争の時で、ちょうど平凡パンチとかプレイボーイとかって雑誌が出てきて感化されたり、開高健やら三島由紀夫やら、そういう人らのこといっぱい見ながら、あぁ、世間は広いなと思うのと、挫折してたっていうことやね、学校に。あまりに難しすぎて。

──そういうのがきっかけと言えばきっかけなんですか。

そやね、一番のきっかけ言うたら、要するにに挫折して何しようかなって思ったわけよ。
そしたら、うちの(絵付け師だった)じいさん見てると、朝起きて、お酒飲んで、風呂入ってってやってると、ちょうど、買いにくる人がみんな、菓子折りとか、何かもって来るわけや。こんないい商売ないわ。だって、品物買いに来るほうが、お願いしますって来るわけやろ。これはいい商売やなー思て。ほんな、これやろうかなと思ったわけや。めっちゃ甘かったけど。

──ご両親は反対なさらなかったんですか。

反対しましたよ。大学行って、2年生のときにもう挫折したから。でも、大学もやめたくはなかったんやね。楽しかったから。ほんで、親に言うて、大学出てもサラリーマンにはなれない、焼きものの世界に行きたいと思うし、遊ばしてくださいって。とにかく、出たら一切の援助はいらない、2年間遊ばしてくださいって言うたんや。それが約束で、だから京都行ったとき、一切援助を受けずにやりましたけど。だから2年間遊ばしてもらって、こういうふうになってしまったんや(笑)。

で、たまたま、最初にやきものやろうってときに北出不二雄先生のところに行ったときには、弟子はとらんとか言ってたんやな。で、ろくろを勉強するなら京都がいいってうちのじいさんが言うんで。
それで、じいさんの知り合いの人に紹介状書いてもらって、歩いていったわけや。何軒歩いたかな。5、6軒行ったかな。でも全部だめやった。弟子はとらないから、訓練校行って、せめて最低限度のことを勉強して来なさいって。わたしは弟子に入る覚悟で、だから給料も何にもいらんて。給料もらわんでどうして生活するんや言われるけど。
まあそんときは幸せなことに、うちのじいさんの知り合いが京都のお茶屋さんやってて、そこへ居候で。

──京都には何年いらしたんですか。

10何年いたんですね。訓練校2年、新開寛山ていう先生のところに9年。10年目に辞めさせられた。辞めたくなかった(笑)。

──新開寛山さんのところはどんな感じだったんですか。

自由やったね。何でもさしてくれた。まあ、先生としては最高の先生やったね。一度しか叱られたことがない。
朝8時半からやったかな、忘れたけど、仕事やって、で、4時すぎたら自分の時間で、ろくろひいて。釉薬やら、何でも自由にさしてくれたし。だから公募展にも出せたんやけど。ほんとに楽やった。こんなに給料よくって、楽なとこはないなっていう。
半端でない金額をもらいましたけど。最後のときは。おそらく、京都の職人さんでも上のクラスぐらいの給料もらいましたから。すごかったですよ。
辞めたくない!(笑)


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