九谷焼の範疇には入らないけれども、いまでは加賀の陶芸家としてなくてはならない存在となった中村久一さん。加賀に窯を築くことになったきっかけや、穴窯で作られる作品の特徴などを伺った。
──中村さんは東京のご出身なんですよね。

ぼくは東京のずっと田舎のほう。東京は28歳くらいのときに出たのね。最初に金沢に。
加賀市とは全然縁がなかった。今の窯場にも、もともと何もなかった。
1980年に準備を始めて、81年に初窯焚いたの。

──石川県のイメージって何かありましたか。

うーん、そんなにはなかったですね。
金沢にいたときに越前の陶芸村に行って。まだできたばっかりだったからね、陶芸村が。比較的初期の段階で。たまたまうちの師匠(畠山是閑さん)が窯造ってたんで。それが直接のきっかけっていうか。それから、越前のほうに気持ちが…。

──修行されたのは越前焼きのほうで?

九谷もちょっとやってたけども。それは本式のものじゃないから。ほんとに修行したっていうのは、越前。

──最初は色絵のほうとかも?

ちょっとね。下仕事みたいなのを。とりあえずそういう世界に入るので、九谷焼の、絵付け、上絵付け、1年半ほど。屋根裏部屋みたいなところで。

──越前では穴窯を学ばれたんですか。

あと、加藤唐九郎さんが造った、越南窯っていうのが陶芸村にあるんだけど、おっきな登り窯、それも焚ける人いなくて、うちの師匠が焚き上げたっていうか。それをきっかけにその窯も同時進行で。

──越前にはどれくらいいらしたんですか。

まあ、5年くらい。福島にも先生の窯があって、そこも弟子だけでやってたから、そっちにも行ったり。

──越前焼きに惹かれたっていうことなんですか。

薪窯に惹かれたっていうのがあるわね…。相性が、どっちかっていうと合ってるのか…。


《焼締扁壷》
──ここに窯を築こうと決めたのはどうしてですか。

単純なんだけど、越前と行ったり来たりしてる間に、8号線を通ると、当時、結構瓦屋さんが道路際に残ってたんだよね。登り窯も見えたし。で、やっぱり土があるのかなぁっていう感じで。加賀市の前の美術館に行ったら、資料も出てて。発掘の。
須恵器の、だいたい7世紀から10世紀くらいの窯跡が、今までトータルで100基以上も発掘されてたんだよね。そのあとの中世の窯もあるけど。


これ、この近くの須恵器。7世紀くらい。これが窯の壁。すごくいい色してて、気に入ってるんだけど。こんな綺麗なグリーンて、なかなかない。

──やっぱり土が。

そう、土があるっていうんで、来たんだよね。比較的そういう窯があったわりには、ほとんど誰もやってなかった。越前だともういっぱいやってる人いるし、どうせだったら、土があって、人があんまりやってないとこ。


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