硬質の、独特な質感。エキゾチックなようでもあり、日本的なようでもあるデザイン。塵ひとつ落ちていないと思わせるような工房で、シンプルでありながらも多彩な表情を見せる作品を制作している高山さんにお話を伺った。
──高山さんは焼きものをされる前はエンジニアをされていたそうですね。
それもあったし、そのあとは営業関係で、35歳までは東京にいたんですよ。
そのあとしょうがないから…。ここの生まれだけどね。こんなうっとうしいとこ帰ってくるんじゃなかったよ(笑)。
──東京にいるときから焼きものをしようと思っていたんですか。
全然。こっちは工芸が盛んだから、なんかやろうと思ってたけど、別に焼きものじゃなくてもよかったんだわ。いい加減なの(笑)。焼きものもやりたかったし、漆もやりたかったし、染織でもよかったし。
ただちょうど、できたんだよ、寺井に研修所が。それでまあ、入ったわけですよ。あそこの1期生なの。1年目で定員割れ。だから誰でも入れてくれたのよ(笑)。運がよかったんだね。そのあと試験があって、大勢来るもんだから、けっこう落ちてましたよ。
生徒いなくなったんだって? まぁブーム終わったからね。昔は女の人が多かった。花嫁修業に、「お茶とお花と九谷焼」って言われてたんだから。
──高山さんには、お師匠さんみたいな方はいなかったんですか?
学校だよね。お師匠さんはいない。よく師事したとかしないとか言うけど、俺の場合は学校だからね。学校ですごかったのは、先生よ。横尾忠則くるし、加山又造くるし、絹谷幸二くるし、もうすごいぞ。じかに話せるんだからね。しかも教えてもらえる。絹谷さんは裸婦。横尾忠則さんはひたすらコピー。来る日も来る日も模写ばっかり。環境はよかったよね。
──親御さんのことがあって、こちらに?
そう。うるさくってねぇ。
──東京のほうがいいですか。
楽だもん。生活楽だし、余計な金かかんないし。
こんな田舎なんてすごいよ、いろんな税金あるんだから。小物成なんて聞いたことないでしょ。江戸時代からやってるの、今でもやってるんだから。
──東京で作品つくってたら作風変わってましたかね。
変わると思うなぁ。